「ねっとわーく京都」1999年5月号
煤煙、異臭、ダイオキシン…
もうこれ以上ガマンできません
●「深草の環境を守る会」からのレポート
二〇年以上にわたって産業廃棄物の野焼きが続けられた大岩街道周辺。現在、行政の指導のもと五基の焼却炉がたち、野焼きはおおむね沈静化しています。しかしいまなお周辺住民は、この五基の焼却炉がもたらす異臭、煤煙によって「窓を開けられない」「頭痛がひどい」「火の粉が降ってきて傘に穴が開いた」などの被害に悩まされています。さらにはダイオキシン類の不安は、野焼き時よりも広域化して広がっています。そんななか九九年二月一三日、「住民の力を合わせ、安心して暮らせる深草を取り戻しましょう」の呼びかけのもと、約九〇人が参加して「深草の環境を守る会」が結成されました。以下、私たち「守る会」からのレポートです。
■こうして「産廃団地」が形成された
「この山は、行政資料には『岡田山』とされている標高一三〇メートル余りの産業廃棄物の山です」。ハンドマイクでの説明に、参加者から一斉に「えーっ!」という驚きの声があがりました。それもそのはず、頂上あたりには数本の樹木がスクスクと伸び、山全体は雑草に覆われています。とおりいっぺんに見れば、ふつうの小山でしかありません。
これは「守る会」発足集会に先立って実施した「環境ウォッチング」でのひとこま。他にも灰色の煙をあげる焼却炉の様子や、電線やビニール類、新建材などがゴチャゴチャに積み上げられた焼却施設ヤードなど、参加者はつぶさに見て回りました。大岩街道周辺の町内に長年住みながら、初

めてこの広大な「産廃団地」に足を踏み入れた人も少なくありません。図のように、現地は大岩街道から北に向かって入ったところにあり、毎日大岩街道を通って通勤している人でも、名神高速という壁にさえぎられて視認しにくいのです。「このあたりには子どもの頃、よく遊びにきたんや。あの鎮守池では、よう魚釣りをやったなあ。話には聞いていたが、こんなふうにじっくり見たのは初めてや。ひどいもんや」。現地から少し離れた町内に住む年配のMさんは、こんなふうにつぶやきました。
そう、かつてこの一帯は風光明媚な場所でした。少し、大岩街道周辺の歴史をひもといてみましょう。大岩街道は一九二一(大正一〇)年に東山トンネルが開通するまで東海道線の一部として、交通の動脈となってきました。大岩街道の北側一帯(稲荷山のふもとにあたる)は聚楽第を築いた「キツチ」が採取できるところで、深草は左官のメッカとも言われてきました。土壁はワラと土を混ぜるだけなので、すべて自然に帰っていきます。しかし昔ながらの土壁はパネルやクロスに変わり、そうした新建材が産業廃棄物としてこの地に集まり、一緒くたに燃やすことでダイオキシン類を発生するようになってしまっているのです。また交通の要衝であったことが、「産廃を持ち込みやすい場所」として産廃業者の集積をもたらしてしまったことも悲しい現実です。
この地に産業廃棄物中間処理業と称する業者が集まり始めたのは昭和四〇年代になってのことです。くだんの「岡田山」を築いた岡田産業は、昼も夜もなく産業廃棄物を受け入れ、あっという間に産廃の山を築き上げました。住民の摘発もあって見かねた行政が、少なくとも名神高速道路の高さまで山を削れと指導している最中、岡田山は大規模な火災を発生、岡田産業は倒産しました。この後です、岡田産業に産廃を持ってきていた業者が自ら、この地で産廃を処理するようになったのは。一九七八年には三業者、八六年には一二業者、九六年にはなんと三〇業者が、この地に集結。一大産廃野焼き団地ができあがってしまいました。
■若いお母さんたちの不安がいま…
この間、住民の運動の中心に座ってきたのは、現場に隣接し、最も深刻な被害に直面し続けてきた馬谷町自治会のみなさんです。七五年に岡田産業と業務内容に関する念書を交わしたのをはじめ、七八年には京都市へ環境保全を求める請願書を提出。以降、さまざまな陳情・請願活動を展開してきました。
京都市は、これらの住民の要請を受けて、八六年に関係一四課で「大岩街道周辺環境対策協議会」を設置、パトロールによる監視と指導体制の強化をはかってきました。しかし当時の産業廃棄物処理法は野焼きを禁止する規定がなく、業者の無法はまかりとおってきましたし、九二年の産廃処理法改正で野焼きが禁止された以降も、野焼きは続いてきました。九六年には深草学区自治連合会として、京都市へ「@深草東部地域の将来像を示す、A公有地の不法占拠の解消、跡地を子どもの遊び場等として整備する、B野焼き対策、監視小屋の設置、C各種法令違反行為の取り締まり、D焼却炉設置については、焼却団地の拡大定着を阻止し、将来的には縮小・解消させる方向を示す」という五項目の要望書を一万一五八七名の署名を添えて提出。このなかで、九七年には五基の小型焼却炉(五トンクラス)が設置される、京都市の監視小屋を現地に置き、三名が常駐するなどの処置がとられました。
こうして野焼きはおおむね沈静化したのですが、被害は収まるどころか五基の焼却炉による新たな被害が生まれることになりました。この五基の焼却炉のうち二基は名神高速より南側、馬谷町により近く、ガソリンスタンドの間近に設置されたのです。洗車した車を一日置いて拭けば、ぞうきんは真っ黒になります。窓を閉め切っていても、煤煙はタンスの奥まで入り込みます。異臭で目が覚めた、ということもありました。産廃処理法の施行規則改正で(九七年一二月)、現在設置されている五基の焼却炉は二〇〇二年一二月以降は、そのまま使用することは困難になりました。そのため「いまのうちに燃やすだけ燃やす」との方針で焼却炉が乱暴に運転されているのではないか、との疑念ももたれるほどです。事実、住民が深い眠りについている午前四時頃にモウモウとした煙があがっていた、などの事態も目撃されています。
さらにまた、問題はこのような目に見える被害だけではないことが、この間、誰にでもわかるかたちで問題提起されました。ダンオキシン類です。
九七年一二月、馬谷町では住民自身の手で健康調査が取り組まれました。この結果、「喉が痛い」「疲れやすい」「咳が出る」といった症状は五割を超えました。また四割を超える住民が「かぜをひきやすい」「体がだるい」「頭痛・頭が重い」などの症状を訴えました。年代、性別で見ていくと、六〇代女性の一〇人中全員が「喉が痛い」と訴えているなど、一日中馬谷町にいる人に顕著な症状が現れていることがみてとれます。
九七年一二月一四日には、摂南大学薬学部の宮田秀明教授を招いての「環境シンポジウム―深草・野焼きとダイオキシン」を地元住民や立命館中高教職員組合などで実行委員会を結成して開催しました。所沢市の産廃焼却場周辺の多くの調査地点で三〇ピコグラムという異常な汚染が起こっていること、阪神大震災での火災や野焼きで大量にダイオキシン類が発生していること、ダンオキシン類が体内に入るとなかなか外に出ていかないことなどを、宮田教授の話に学びました。ここで特に大きな衝撃をもって受け止めたのは若いお母さんたちです。
宮田教授は言います。「女性は二〇年ほどかけて溜め込んだダイオキシン類を簡単に母乳と一緒に出してしまいます。一年間母乳を出し続けると母乳の中のダイオキシン類濃度が六〇%減少しています。だから二人、三人と産んだお母さんは濃度が低く、男の人は溜まる一方です」。自らの体が汚染されるのは百歩譲って仕方がないと諦めることはできても、すくすく育てと与える母乳でわが子がダイオキシン類に汚染され、そして自らは汚染から免れることができる――。母親にとってなんと残酷な図式でしょう。
■町内会でチラシは配る!の協力も
「深草の環境を守る会」結成の場で、馬谷町と大岩街道をはさんで隣接する向ケ原町に住むTさんは呼びかけました。「以前、私は勤めに出ていて、焼却炉には無関心でした。でもいま主婦となって一日中家にいると、とんでもないことが起こっていることが肌身でわかりました。ダイオキシン類による汚染も不安でなりません。何か私にもできることはないか、そんな気持ちでこの場に立っています」。私たち「守る会」に参加するメンバーの共通した想いが、この言葉に表されています。
発足したばかりの「守る会」ですが、準備をすすめるなかで地域の企業経営者から「うちもお客さんの車が真っ黒になって困っている。お客さんのなかには産廃処理業者の人もいるから表立っては応援できないが、カンパならさせてもらう」などの期待が寄せられています。チラシの配布についても町内会長さんから「大事なことなので町内会として責任もって配る」という協力をいただいた町内、回覧板で回していただいた町内など、大きな広がりを生み出しつつあります。馬谷町に隣接した町内で名神高速に沿って建つ天理教満栄分教会からも、発足会当日の会場の提供というかたちでの協力をいただきました。また山科側の住民からも「共に取り組みたい」との言葉をいただいています。
こうした期待に励まされ、「住民の健康調査を」「ダイオキシン類調査の徹底を」「当面、粉塵や煤煙による公害をもたらさない焼却炉の運転を」「深草東部地域の将来構想を示せ」などの項目での京都市への要請行動、より広範な市民に大岩街道周辺の実態をその目で見ていただく環境ウォッチングの取り組みなどを、産廃施設や焼却施設問題に苦しむ京都市内の住民の方々と手を結びながら進めていきたいと考えています。